クリシュナムルティ

心に静寂を

今回のコロナで注目されることとなった”スーパーシティ構想”。5G、AI、ビッグデータ、ドローンにキャッシュレス。実現すれば”超監視(管理)社会化”するのは間違い無いでしょう。

こうしたシステムに人間が組み込まれていくことをマトリックスなんていいますが、決して今に始まったことではないようです。

クリシュナムルティの書物に「ペンシルバニア州エディントンにて」という題で、1936年6月12日付けのお話があります。(講和なのか、インタビューなのか、はたまた日記なのかわかりませんがごく短い文章です。)

「機械論的な見方では、人生は次のように考えられている。人間は環境とそれに対する様々な反応の産物にすぎず、感覚でものを捉えることができるだけであるから、この環境と反応は、個人がその枠組みの中でのみ活動を許されるような、合理的なシステムによって制御されるべきである、と。」

1930年代にまるで、2020年の現代をはっきりと捉えているかのような描写ですね。要は「誰かに迷惑さえかけなければ何してもいいよ。その代わり自由は無いけどね。」と解釈できそうです。

もちろんクリシュナムルティはこれに対して、

「そこには、至上の存在、超越的実在、永続するもの、などは何ひとつ考えられていない。」

と指摘しています。

しかし、興味深いのはこのあとです。

「一方、人間はもともと神性を具えており、その運命はある至高の知性によって制御され導かれている、という見方がある。」

と今度は信仰の話になるのですが、それに対しても否定的な見方を示します。

「人々は人生を機械論的に捉えるときもあれば、悲しいときや困っているときには、導きと救済を求めて至高の存在(要は神様)に頼り、信仰に立ち戻ることもある。人々はこの正反対のものの間を揺れ動いている。」

簡単に言えば私たち人間は、物事が上手く行ってる時は神様のことなんか忘れてるくせにそうでなくなると”困ったときの神頼み”をしている、と冷静に指摘しています。

「これらの限界を作りあげている過程、その限界を消滅させる過程をしっかりと把握しないかぎり、本質的には自由にはなれない。」

光と闇、善と悪、幸と不幸、楽と苦など、自らが対極を作り出している限り、その枠の中にいつの間にか囚われてしまう。非常に難しいところで、凡人の私には理解しづらい感覚です。

困ったときの神頼みと、その反対は快楽に常につきまとう陰(恐怖)みたいなことかな。

最後は

「みずからの意志による渇望が原因となって生じたこの無知の連鎖が消滅した暁に、初めて真実在、真理、至福と呼ぶことのできるものが立ち現れる。」

と締めくくられています。

つまり人間は常に溺れかかった存在で、藁をも掴もうと必死になっている。だけどそこでじっとしてれば神様が浮き輪を投げてくれて、救いの手を差し伸べてくれるよって感じのことでしょうか。

世の中の健康に関する状況も、これに似ている気がします。私たちは毎日、情報の海で溺れかかり、自分たちを救ってくれるものを探し求めています。

もうそんなことやめにしませんか?

上部頸椎カイロプラクティックは人間本来の体に備わっている自然治癒力に働きかけるためのものです。それは内から外へと広がっていきます。

これは私たちが、神様でも宇宙の叡智でも未知なるものでもなんでもいいですが、そこから授かったものに気づくためのプロセスでもあります。

心に本来のあなたが姿を現すときは、透き通るような美しい湖面に静寂が訪れた時だけでしょう。

「いかにして神と出会うか」 クリシュナムルティ めるくまーる