クリシュナムルティ

条件づけ①

「さて、あなたが鋭敏そのもので、この上なく真剣だとすれば、あなたは自分の条件づけのみならず、それがもたらす危険にも気づくでしょう。」

とクリシュナムルティは言います。

いきなり一体何の話だろう?と思われるかもしれません。

ですが彼のお話はいつも、とてもシンプルで大事なことを言っています。

「もしも周囲のことが万事うまくいっているなら、〜その場合あなたは自分が条件づけられていることには全く気がつかないでしょう。」

〜ではしょった部分には「お金もあって、愛する妻もいて、妻もまた自分を愛して」などが入ります。

抵抗が何もない状態では、私たちはこのことに気づきにくいと言うことです。

ですが自分の思い通りにならないことがあるときに、私たちは”条件づけ”られていることに気がつきます。

条件づけは妨害であるにも関わらす人間はそれに慣れるか、もしくはそれから逃避するかと言う2パターンしか選択肢として持ち合わせていないと彼は指摘します。

噛み砕いて言うならば、”辛い現実を黙って受け入れるか、もしくはそこから逃げ出すか”と言うことです。しかし、どちらを選択したところで精神(エネルギー)はすり減っていくことにしかならないと彼は続けます。

そして私たちは常に”事実”を覆い隠そうとしていると。事実をありのままに見るとき私たちは何も抵抗のない状態にあるのですが、そこに欲望が生じると目の前の現実を否定することになります。現実の産物である私と思考の産物である理想とにギャップが生まれ、この世界において最も大切なもの(愛)を見失うと言うことは別のブログの回にも書いたと思います。(正直愛は最も難しいテーマの一つです)

そしてこの後、ようやく冒頭の条件づけは〜と言うところに話がつながります。

私なりに考えてみますと、条件づけは1か0かと言う”全か無かの法則”に例えられます。(確かコンピューターもこの1と0だけで動いています。)

細胞が刺激を受けた際に閾値を越えれば興奮するし、それ以下ならば興奮しないと言う生理学などで習う法則のことです。

しかしなぜ彼はこれほどまでに、この”条件づけ”が危険なものだと私たちに警告しているのでしょうか?

それは必ずと言っていいほど”残忍さ”や”憎悪”に行き着くと彼は述べます。

例えば私が好きな山登りをするとします。だいたい山頂まで行って帰ってくるのがその日の目的です。

何度も何度も同じようなことをしているので、私は多少無理をしてもそれを遂行しようとします。

それがなぜ、結果的に”残忍さ”や”憎悪”と言ったものに行き着くのでしょう。

登山でも究極的なものになれば、当然命を落とすリスクがあります。そして毎年そのような形かどうかはわかりかねますが、確実に命を落とす登山者はいます。そう考えてみれば確かに、破壊的かもしれません。

例えば私が一途に信じていた人に裏切られたとします。当然私はその人に対して憎悪を抱きますよね。これもこのような事情で日々、残忍な事件が起きていることを考えてみれば必ずしも他人事ではありません。

少し話をまとめると、目的が達成された場合は満たされ、そうでない場合は満たされないといえます。おみくじを引いて大吉が出ることもあれば、凶を引くことがあるのと変わりありませんよね。そして大吉がいつまでも出続けることはあり得ないので、結果的には憎悪とまでは行かなくても嫌な思いをすると言うことです。

ではなぜ人は、毎日この”おみくじ”を引いてるのでしょうか?

単純にいえば、当たりを引きたいからですよね。

当たりを引いたら私たちは満たされます。

山の山頂へ辿り着いたら、私は満たされます。

恋人から「愛してる」と言われたら、私は満たされます。

宝くじが当たったら、私は満たされます。

でもそれはほんの一瞬の出来事でしかないですよね。

その直後にはまた次の、「半か長か?」が待っています。

だからクリシュナムルティはこのエンドレスに続く”博打”(条件づけ)から自分自身を解放しなさいと言っているのではないでしょうか。

彼は条件づけが危険なものだと分かったなら、なぜ私たちはすぐさまの行動に移らないのでしょう?と問います。

行く先に断崖絶壁が待っているのだとしたらすぐさま回避しなければならない、と例えます。

具体的にはそれを”見る”ことが、私たちに出来る唯一の行動であると彼は述べます。

見ると言うことは、その条件づけに対して気づいていると言うことですよね。

それに気がついたら、出来る限りそれに”乗っかるな”と言うことでしょう。

要するに私たちは一般的に、”外から満たされる”と考える習性があります。

もっとお金があれば、愛してくれる恋人がいれば、素敵な車を持っていれば、名声が欲しいなどなど。

しかしおそらく内側から満たされなければ、私たちは常に外部に依存することになります。その結果それが思い通りにならなければ私たちは憎悪し、残忍な存在に成り果てるのでしょう。

内側から満たされると言う状態は”足るを知る”、要は思考が無秩序に動き回っている状態ではなく静まっていることを指します。

スペシフィックカイロプラクティックでも”内から外”、体の内部環境を整えることで自然治癒力を最大限に発揮できる状態へと持っていくことが1番の目的です。(辛うじて話が繋がった笑)

『既知からの自由』クリシュナムルティ著