クリシュナムルティ

思考者の探究②〜見るものと見られるものは一つ〜

2、見るものと見られるものは一つ

※前回に続き青字は賢者の言葉

外的世界には多くの書物が存在するが、私たちが現に何なのかを発見していない

人間はどうして正しい関係を持つことができないのでしょうか?

どうして愛を拒否するのでしょうか?

人々は搾取され、抑圧され、抑圧者は抑圧されるものになる。これが悪循環を生み出す

私たちはこうした状態にほとんど気がついていない

私たちは思考によって生きてる。私たちの行為はすべて思考に基づいている

祈りや瞑想も思考に基づいていますが、国家、民族、宗教的な分割ももたらしてきた。

私たちはみんな断片化した生を生きている

それぞれの断片はそれ自体のエネルギー、能力、トレーニングを持つ

これが互いの争い事を招き、膨大なエネルギーを浪費する

条件付け、思考が自由でないかぎりこれらの問題を解決できない

新しい道具を見つけるには、今までの道具を手放さなければならない

地球は〇〇人のものではなく、私たちみんなのものであり、知恵を持ち幸せに生きるべき

しかし条件付けがそれを妨害している

この条件付けはコンピュータに似ている

私たちはプログラムされている

その制限から自由でない限り、新しい道具を探究することは意味がない

遠くへ行くには近くから始めなければならない

しかし私たちはそれを嫌う

私たちはみんな理想主義だから

人間の問題は非常に複雑だから、時間に依らない忍耐が必要

何かを達成、目的、目標に到る為ではなく、一歩一歩それを探究するのです

私たちはプログラムされています

私たち人間の頭脳は機械的な過程です

私たちの思考は物質的、素材的な過程で、その思考は〇〇として条件付けられている

それで私たちの頭脳は条件付けられている

その条件付けから自由である事は可能なのか?

それが可能かどうかは、私たちの関係を探究しなくてはいけません

関係は私たち自身がありのままに見える鏡です

生すべては関係における動きです

何らものごとに関係していない生き物は地上にいません

関係からの逃避はありません

関係は私たち自身が見える鏡ですが、それにおいて私たちは何なのかを発見できるのです

なぜならそれが生の基礎であるからです

それが私たちが今、互いに持ち合わせている唯一のものなのです

そして私たちは正しい関係をみつけられないなら、その孤立した存在はそれ自体の破壊をもたらす

それで関係は生においてもっともとてつもなく重要な事なのです

私たちはその関係を理解しないなら、新しい世界をとうてい生み出せない

どうして人間は正しい関係を一度も持つことが出来ないのでしょうか?

この探究は単に知的または言語的であり得ます

しかしこういう知的了解は全く価値がありません

しかしあなたが私たちの関係を一つの全体として見ることができるなら、関係の深さと美しさと性質が見えるのです。

互いとの現在の関係とは何なのでしょうか?私たちはそもそも関係しているのでしょうか?

私たちの関係は性的で楽しめます。私たちの関係は所有欲、執着、互いへのさまざまな形の侵入です

例えば、執着とは何なのでしょうか?

私たちはどうしてこんなにも執着しているのでしょうか?

あなたが執着している時、それを失う恐怖がいつもあります

いつも分離の感覚があります

私は結婚していませんが、仮にそうだとします。私は彼女(妻)に執着しています

それは嫉妬し怯えているという意味です

執着の帰結は恐怖、失うこと、嫉妬、心配の継続です。嫉妬があるところ、憎しみがあります

執着は愛でしょうか?それは私たちの関係における一つの論点です

私たちの関係において一人一人が、年月をとおして互いについてイメージを組み立ててきました

彼女と彼が互いについて生み出してきたそれらのイメージが、現在の関係です

そのイメージ関係に、もう一人との何か現実的な事実の関係がどうしてありうるでしょうか?

私たちのみんなが子供の頃から自分について、そして他人についてイメージを築いてきたのです

そして私たちは非常に重大な疑問を尋ねています。私たちの関係においてただ一つのイメージもなしに生きることができるでしょうか?

私の疑問を理解していますか?

ただ一つのイメージもなしに深遠に生きることができるでしょうか?

人間はそもそもどうしてイメージを持つのでしょうか?

他人についてイメージを持つ時、そのイメージは安心感を与えてくれるのです

愛は思考、欲望、楽しみ、イメージの動きではありません。あなたが他人にイメージを持つかぎり、愛はないのです

ただ一つもイメージもなしに生を生きることは可能でしょうか?

そのときあなたは互いとの関係をもつのです

今あるように、それは二本の平行線 私たちの関係は性的以外に決して出会うことのない二本の平行線のようなものです

男は野心的で何者かになろうとし、女も生計を立てる為に行ってしまうのです。

そして彼らは家で子供を育てるために出会うのです。そのとき、責任の問題全体、全くの無頓着が生じるのです

安全に結婚し、住まい、仕事を得て欲しいのです

そして教育は哀れな生徒、子供を条件付けることを続けていく

これが私たちの生、私たちの日々の生ですし、それはほんとうに悲しい生なのです

それで尋ねるのです、人間はどうしてイメージによって生きるのでしょうか?

あなたたちのすべては、思考によって創造されている

こういう幻術を、思考は互いに対してかける

私たちは関係のなか、条件付けから自由である事は可能でしょうか?

すなわち、関係の鏡のなか私たちの反応はなんなのか、それらは機械的、習慣的、伝統的なのかどうかを、注意深く一貫して観察するのです

そしてその鏡のなかあなたは、現にあなたが何なのかを発見するのです。ですから、関係はとてつもなく重要なのです

関係の鏡のなかあなたは何なのかをどのように観察するのでしょうか?それで私たちは観察するとはどういうことなのかを探究しなくてはいけません

仮に結婚していて妻がいるとします。その関係はあなたが何なのかが見える鏡です

あなたはどのように関係の鏡のなかあなた自身を、あなたは何なのかを、観察するのでしょうか

観察するとはどういう意味でしょうか?これは本当にみいださなけさばいけないもう一つの重要なことなのです

見るとはどういう意味でしょうか?

〇〇という言葉なしにそれを見ることができるでしょうか?

私は河のように進むでしょう。あなたは河を見ながら河岸に座っていますが、決して河になりません

あなたは河に加わらないし、始まりもなく終わりもない動きの美しさに決して加わらないからです

あなたはそれに名付ける事なく、同一化する言葉を使うことなく、それを見ることができるでしょうか?

さて、あなたは妻、夫、子供を私の〇〇と言わずに、イメージなく見ることができるでしょうか?

その時何が起こるかを見出だして下さい。言葉は思考です。思考は記憶から生まれます

それであなたは記憶、言葉、思考、イメージを、あなたと相手の間に干渉させているのです

見る、観察するには、言葉、言葉の内容、言葉の意義という意味での思考はないのです

その観察にあなたを見る私という中心はないのです

その時だけ他人との正しい関係があるのです。そこには愛の性質、一定の美しさ、一定の俊敏さの性質があるのです

あなたが他人についてイメージをもっているなら、疎通は無いし、愛はないし、その言葉の深さはない。イメージは私たちの条件付けです

すなわち、私たちは条件付けられているし、プログラムされているのです

あなたがあなた自身の思考活動を観察できるなら、あなたが思考を観察するのではなく、思考がそれ自体を観察するのです

違いがわかりますね。なぜならあなたは思考によって組み立てられているからです

あなたの形態、名称、性質、恐怖、心配、国家、民族、性向などは思考によって組み立てられているのです

それがあなたの意識です

心理学者たちが話してくれましたが、彼らは意識の存在を信じていません

彼らはただ物質と物質への反応、感覚と適応が見えるだけです

わずかに神経症的でも現在の存在への適応、それは様々な原因の結果です

それら原因を取り除いて、あなたは自分を現在の社会、現在の悲惨さに適応させるのです

そして、私たちの条件付けはこんなに深いし、それを理解するには努力の本性を理解しなければならない

世界中の人間はどうして永続的な葛藤、抗争に生きているのでしょうか

葛藤の原因は何なのでしょうか?

原因があるところ、その原因には終わりがあります

原因の一つは何かになろうとする常なる試みなのかもしれません。なりゆくことです

なりゆくことは進展の過程です。すべてのなりゆくことは時間の過程、すなわち低いものから高いものへの進展です

あなたは苗木を植えます。それは大きな樹になります。その樹の進展です

なりゆくことは時間、空間を必要とする進展の過程です

有るべきものではなく、ただ有るものだけが存在します。その時二元性はありません

有るものから離れて、なってはいけないとかなるべきだとかなろうという観念がある瞬間、その時葛藤があるに違いありません

ただ有るものだけがあるとき、あなたは有るべきものではなく、有るものを扱うのです

ただ見ることができるでしょうか?怒りやそこから動くのではなく、感情を保ち、抑圧も逃避も超越もなく、貴重な宝石を見るかのように

それが「私」であるなら、私はそれについて何もできなくて、ただ観察するだけです

ですから観察者は観察されるものです

思考者は思考されるものです

経験者は経験されるものです

二つは分離していないのです

ですから分割があるところ、葛藤があるに違いないのです

私が私の妻から分離しているなら、もちろん物理的には分離していますが、私が心理的に妻から分離しているなら、必ず葛藤があるはずです

ですから、時間、進展、対極の感覚は、暴力の要因です

これらの要因すべてが私です

ですから「私」は本質的に葛藤の原因です

葛藤の動き全体を翻訳するのではなく、観察するのです

理解しようとするのではなく、空、大海の素晴らしい動きを観察するようにただ観察するのです

その時それはあなたの分析なしにその内容をすべて話してくれます

それで機械的に、心理的に葛藤に置かれている頭脳は、必然的にそれ自体に無秩序をもたらすし、外的にもそうなるに違いないのです

自由があるとき、秩序があるし、愛、慈悲があるし、その慈悲が知恵なのです

至高のものを見つけることができるのは、そういう精神だけなのです。

 

ここで一番大事な部分は”観察者は観察される者”であるというところです。

”実在しないもの”である「有るべきもの」、「理想」などを切り捨て、「有るもの」だけを”見る”、取り扱うとします。

他者に対してもそうだし、自分自身(内的と外的)に置いても、ということです。だからその分お話が回りくどく感じられるかもしれません。

”他者との関係が何よりも重要”と強調されていますが、以下例は一人称で。

自分の中には、自分を見ている自分がいます(とします)。「有るもの」として自分を見ているうちはいいのですが、それが「有るべきもの」になってしまうとその瞬間に葛藤、ギャップ、距離、時間が生まれます。

大抵「有るもの」である自分は不完全です。貪欲な自分とでもしておきましょう。この「有るもの」である「貪欲な自分」は自分から生まれた結果です。思考者が思考し、そうした行いを行い、その結果「貪欲な自分」が生み出される、目に見える見えないにかかわらず浮かび上がってきます。

そして、「貪欲さは悪いことだ、だから私は貪欲でない人になろう」と気に入らない結果から目を逸らそうと試みます。しかし、この貪欲さが、自分自身に根を持っていることに気がつかなければ、私は貪欲の無限ループに陥ります。

その種を蒔いたのは自分自身であり、そこから連続しているものなので、それをありのままに受け入れることしかできない。

すると私を見ている私(思考者)を袋小路へと誘い込む事に成功するという訳です。上記で賢者が述べているように、思考者は常に私(現実)をフィックス(修正)しようとする存在です。何故なのか?それは思考者自体が”思考によって作られたイメージ”だからです。

ありのままの現実の自分を、思考者が目を逸らさず直視する事で初めて、本当の自分に気がつく。故に”観察者は観察されるもの”となる。

では何故、このようなことがそれほどまでに重要なのか。思考者が思考を止め、ありのままに私を見る。その時はじめて、私たちの中に存在する宇宙の叡智(イネイト)が反映されるからでしょう。

よく赤ちゃんの時の意識は、宇宙とつながっていると言います。思考、記憶、言葉、確かにこうしたものが彼らにはまだなく、見ているものもまだ、ぼんやりした光くらいにしか見えないそうです。

その純粋無垢な意識(精神)こそ、宇宙の意識なのでしょう。

最後にこれをもう一度、カイロプラクティック哲学に当てはめていきます。

1点目は原因と結果。ありのままに見るという事は、起きた結果をありのままに見る、受け止めるということです。その時はじめて原因も一緒に見えてきます。

スペシフィックカイロプラクティックでは病気の原因となるものの一つを、神経の乱れと明言しています。だからそれが、一番酷く起こるところ、原因の原因である上部頸椎の調整が重要なのです。健康おいて大事なのは、症状(結果)ではなく、なぜそれが起きるのか(原因)を追求していった結果です。

2点目は先天的知能と後天的知能。後天的知能(思考、記憶、知識など)に依るのではなく、先天的知能(イネイト、宇宙の叡智)に身を委ねる。上記の賢者の言葉も、まずはこの存在に、人々が気がつくためのプロセスを語っていると言えます。

こうしたことは、科学的に証明できるものではありません。また、ましてや私など、このような賢者たちの体験から基づく彼らの言述を、知識としてまとめて述べているだけです。

ですので、頭だけで理解したところであまり意味はありません。実際にそのように生きるという事は、全く別のことだからです。

ただ上部頸椎カイロプラクティックの凄いところは、こうした一連の流れを、カイロプラクターの手によって、他動的に”スイッチ”を入れることができる、というところです。

賢者も繰り返し、”ただ同意する事に意味はありません”と言っています。要するに、いくらでもガイドしてあげることはできるが、自分自身が探し、見つけ、行わなければならないということです。

もちろん、賢者の言葉と、上部頸椎カイロプラクティックを比べることはできませんが、ベッドに横になって、首を触ったか触らないかくらいのアジャストで、もしこのようなことを感じられるのだとしたら、それは価値のあるものに違いありません。

なので、上部頸椎カイロプラクティックを受けていただく際に大事な点を3つ挙げさせてもらいます。

1、説明を聞いていただいて、少なからず納得していただく。

2、期待しすぎない

3、心を開いてもらう

要は上記で賢者も言っているように”関係”が最も重要なのですから。