クリシュナムルティ

思考者の探究③〜慈悲と知恵〜

3、慈悲と知恵

人間が根本的に心理的、内的に変化しないなら、未来は今あるものです

私たちは決して何にも全体として取り組まないのです。生を全体として見ないのです

私たちが心ハートと言う言葉を使うとき、それは、心のなかの精神マインド、愛の性質のなかの精神という意味です

それで私たちは、愛とは何かを見るべきです

愛でないものを見出すこと、それが否定ですし、もっとも肯定的な行為です

それで、あなたは執着から自由であることができるでしょうか、死がある最後の瞬間にではありません。あなたは他人への執着を終わらせることができるでしょうか

慈悲とは何でしょうか。愛と慈悲の間の関係は何でしょうか。

私たちが関係と言う言葉を使うとき、それは二元性、分離を含意していますが、私たちは、愛は慈悲にどういう持ち場があるのか、または愛は慈悲の最高の表現なのかと尋ねています

それで、愛の本性を理解するなか、その性質をもつこと、それは心に精神です。すなわち知恵です

知恵は愛とは何かを理解すること、発見することです

知恵は愛と慈悲に伴うのです。知恵があるところ、私とあなたはありません

そして知恵はあなたの心にもあなたの精神にも住していません。至高なるその知恵はどこにでもあるのです。それは天と地と星を動かす知恵です。なぜならそれが慈悲であるからです

私たちはともに、死とは何かを話し合うべきです。死は終わりです。私たちの記憶、執着、それらの終わりです

それで、死とは何なのでしょうか。そして死ぬのは誰なのでしょうか。そして生とは何なのでしょうか

それで生、あなたの生、または万物の生、地球の生、自然の生、始まりも終わりのない広大な動きである生とは、何なのでしょうか

楽しみとしての葛藤、恐怖としての葛藤、楽しみと欲望の追求です。これがあなたの生です。それが、その生の終わりが、私たちが話していることでしょうか

何が重要なのでしょうか。死の前でしょうか。または後でしょうか

生きること、生、その美しさ、そのエネルギー、その情熱、その無量性を、あなたはこういう浅い小さい「私」に還元してしまったのです

「私」とは何なのでしょうか。「あなた」とは何なのでしょうか

それで私たちは、死ぬのは何なのか、そして生にしがみつくのは何なのかを尋ねているのです

私のいう生は、会社、セックス、苦痛、楽しみ、互いに戦い、互いに喧嘩し、滅ぼし合うことを意味しています

「あなた自身」は時間をとおして築かれています。あなたが生まれる瞬間から今まで、「私」としての報いです

そしてあなたはその「私」を実在として受け入れるのです。それはそもそも実在するのでしょうか

それらはすべて思考によって組み立てられているのです

そしてその「私」が生のこのすべての労苦にとりすがっているのでしょうか。あなたがそれにとりすがっていないなら、生は何かまったく異なったものです

それは広大な計測不可能な動きです。しかしそれは、自己がないときだけ見られるのです

あなたが気づくとき、そのとき注意があるのです。深遠に注意するとき、注意する「私」という中心はありません

宗教的な人はどんな集団にも属していないし、信念をもっていません。なぜなら精神が自由であり、恐れていないからです

なぜなら、知恵は至高の形の究極の安全であるからです、ずるい思考の知恵ではありません。慈悲の知恵です

そして注意があるところ、静寂があるのです。そのときだけ、人間が記憶なき時から探し求めてきた神聖なもの、名のない、至高のもの、です

生の労苦すべてからまったく自由であるのは、その精神だけなのです

例によってカイロプラクティック哲学に照らし合わせていくと、ここでも知恵は宇宙の叡智、慈悲は宇宙の力と当てはめていくことができます。

例えば、私たちがいつも何の感謝もなく吸っている空気の成分も、窒素が78.08%、酸素が20.95%、アルゴンが0.93%、二酸化炭素が0.03%と決まっています。ここには間違いなく宇宙の叡智(法則)が存在し、それに則って力が作用し、生成される事によって、私たち人間や動物たちは、この地球上で窒息しないで生きることができるのです。

また、”知恵は至高の形の究極の安全である”と語られています。これもイネイト(私たちの中に存在する宇宙の叡智)が私たちを死ぬ(寿命)まで生かし続けてくれることを示唆しています。だからスペシフィックカイロプラクティックでは、”イネイト任せにしておけばいい”とよく言われています。

しかし、前回も書きましたが、現代の生活においては、こうした事に気づくことがとても困難になっています。私たちは、小さな頃から、目に見えるものしか信じないように教育されてきました。なので、ここで私がこうしたことを取り上げたとしても、本気で読んでくれる人がいるかどうかもわかりません。

現にこうして書いている私ですら、日常生活に追われ、このような大切なことを忘れて生きているかもしれません。

ここでもう一度賢者の言葉を整理してみます。

1、私たちは皆、意識でつながっている

2、だから何よりも他者との関係が重要

3、よって見るもの(私)と見られるもの(私であり他者)は一つ

今騒がれている新型コロナの問題にしても、もしかすると、こうしたことを私たちに再確認させるために、起きていることなのかもしれません。

いくら政府の対応がミスマッチでも、病院が機能不全に陥っても、またこれによる深刻な経済的ダメージが波及しても、私たちが”真に”正しい関係を持っていたら平然と乗り越えることができるはずです。

 

 

”市内にはいったら、水がめを持っている男に出会うだろう” ルカによる福音書 22:10

次回はここで扱えなかった愛について探究していきたいと思います。