クリシュナムルティ

まだ見ぬ景色

夕方、誰も浜にいなくなったところを見計って日課の散歩へ。風が少しだけありそうなので、キャップを被りと薄手のネルシャツを羽織る。下はいつも通り半パンにビーサン。

目指すは海に突き出たところにある、通称”瞑想岩”だ。河岸工事をしたおかげで茫々だった雑草は刈り込まれ、地面もショベルカーのキャタピラで踏み固められている。おかげで宇波のバス停まで道路脇を歩かなくて済むようになった。

バス停の裏から浜へ下りる。普段は地元の子供達がここに自転車をとめて浜で遊んでいるが今日はいない。

海に突き出たところにある瞑想岩までいく途中、風が強くなる。東風、またはあいの風とも言われる春から夏にかけて吹く風だ。山に残っている雪を溶かす風とも言われ、蒸した空気を吹き飛ばしてくれる。

瞑想岩の周辺には今日はフナムシがびっしりといる。私が歩いていくと、まるでモーゼの十戒のようにさーっと岩の下に隠れていく。しかし岩の上でクリシュナムルティを読み始めると数匹顔を出してこちらのようすを伺っている。ナウシカに出てくるオームのちっちゃい版とも思えるけど、まだお友達にはなれない。まとわりつかれてびっくりして岩から落っこちると危ないので浜へ戻る。

浜には大きな流木で出来た、天然の椅子が存在する。

大きな太い大木とその後ろに細めの大木がある。細めの大木に腰をかけ、太い方に足をかけるのが最近のお気に入りだ。ただここでもコバエが寄ってきて、何故か毎回虫に足を刺される。それが蚊なのかアブなのか、はたまたこの寄ってくるのが実はコバエではないのかわからないが、それだけで足がパンパンに腫れ上がる。だから私の前にいつも散歩している老紳士はそれをわかっているからなのか、いつも長袖長ズボンを履いている。

本を開く。昨日は”問題をそのままにしておく”、というところで終わった。一つ目の質問を読み終え、二つ目の質問に入る。

「心と考える人は別なのか?」

この質問に対する彼のお話に、

「思考が思索者を作るのであって、その反対ではない。」

という一節が登場する。そこで私は、改めて”見るものと見られるものは一つ”という意味を再確認する。

「もし、そこに思考が存在しなければ、思索者は存在しない」

するとデカルトの「我思うが故に我あり」という言葉の意味が180度逆転する。

「思う(思考)故に我あり」、要するに我である思索者が、思考をするのではなく、思考が私を形作っているということに気づかされる。

私、丁場裕次郎という存在がこの世界に誕生した時から連続してつながっているのではなく、その瞬間毎に丁場裕次郎として思索者である私がそれを認識しているに過ぎない。丁場裕次郎が全てを記憶しているのではなく、丁場裕次郎という名前、それに伴う記憶が私である丁場裕次郎を作っているということになる。

確かにこのサブジェクトは鶏が先か卵が先か、という話にもなりがちになる(因果関係としてどちらが先かという意味)。

しかし、これは前回記述したマトリックスのお話にもつながってくる。要するに一番はじめに自由があるのと、そもそも始めからカテゴライズされている中における自由が存在するのとでは意味合いが全く違ってくるというわけだ。

物心ついた時から私たちは様々な枠(フレーム)に組み込まれることによって成長していきます。

電車に乗るには切符が必要だし、切符を買うにはお金が必要といったように。

ただ、それだけではなく、心理的にも他人と比べられ、「もっといい子に振舞わなければいけない」、「学校でいい成績を取らなければいけない」などといったつまらない枠組みはめ込まれていくことを避けて通ることが出来ません。

そしていずれは社会へと送り出されることになります。その社会ではまた、同じような枠組みにはめ込まれた人間が産み出され、私たち人間が最も大切にしなければならない物の一つである「己の尊厳」は日々蔑ろにされていく。

例えば今から約150年前、アメリカ合衆国では奴隷制度が憲法で認められていました。

ですので、私たちが今この瞬間、住んでいるこの社会におけるルールは必ずしも完璧なものである、という保証はどこにもありません。

そうは言っても、こうして壮大に仕組まれたマトリックスから抜け出すことは、歴史的に見ても、悟りを開いたブッダやイエス様といった特別な方々をのぞいては不可能に近いでしょう。

しかし多くの人々がこのマトリックスの存在に気付き、これとは全く別の山へ登ろうとすれば、自ずとその山の道は踏み固められ歩きやすくなることでしょう。途中で道に迷う心配も少なくなり、励まし合う友達もできるかもしれません。

そしてきっとその山頂には、まだ私たちが見たことのない景色が広がっていることでしょう。